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2023年5月 8日 (月)

島への環住

「潜れるだけで感謝なんだよ」と向かった島。
そんな謙虚さが良かったのか、
三日間とも晴天な上、海めっちゃきれいでユウゼン映え~の、
安定のウミガメ可愛いい八丈島。だった。


思えばダイビングの仕事に最初に触れたのも八丈島。
あらためて八丈小島の格好良さ、
小島に沈む夕景のすばらしさに感じいってしまった。
八丈にいるときゃそんなこと考えたこともなかったもんなぁ。
年取ると視力は落ちてくるのに反比例して、選美眼は冴えるのかも。


さて、海の映像は後でアップするとして、宿にあった本をチラりと読んでみると、

Photo_20230508105101
無人島について書かれた本

 

最初から無人の島もあれば、有人から無人化した島もあり、
その島々の物語がつづられた本で、八丈小島や青ヶ島のことも書いてあった。
どちらも周囲は断崖絶壁の島で、
船からの積荷作業だけでもその過酷さが分かろうと言うもの。
小島に至っては飲み水を雨水に頼っての生活は、
いかほどの物だったんだろうと想像する。
しかし、昭和44年の全住民の離島での無人化の際には、
そこに故郷を思う惜別の思いがしっかりと刻まれていたんです。

また、東京竹芝からフェリーで八丈にわたると、
港に二回りも三回りも小さくした、青ヶ島行きの環住丸が停まってることがある。
欠航率を考えると気軽とまでは行かないけど、
今はヘリも飛んでいるので、昔に比べればかなり身近に感じられるようになった青ヶ島。
そんな青ヶ島行きの環住丸を、「あ、かんじゅー止まってる」くらいしか考えたことが無かった。
でも、そこには青ヶ島の人たちの強い強い思いがあったんだねぇ。


1785年の噴火では、青ヶ島の植物をも死滅させる大噴火。
当時300名を越える島民のうち、八丈島へ避難できたのは約2百名。
1787年以降は手漕ぎ船での青ヶ島の人たちの命がけの島への見聞。
渡れないことが分かっていても、自分たちの故郷の島を見たかったのでしょう。
渡航したもの、溺死したもの、、そこから1817年、
青ヶ島復興の願い書が取り上げられ島への期間が始まったそうだ。
すべての島民が故郷へもどったのは1835年、実に50年もの歳月。
まさに「環住」とは青ヶ島の人たちの思い、
ふたたび故郷の島に戻り住むのだという気持ちを表したに文字。

現在の青ヶ島は電気、自動車、水道、ガス、ヘリポートとインフラが進み、
住民だけでなく観光や焼酎生産でも注目されるようになった。
それもこれも環住の思いがあったからなんだねぇ。

 

ふと開いた1冊の本のお陰で、海に浮かぶ島の見え方が変わった気がした。

 

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