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2019年9月13日 (金)

鹿児島との縁

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非常に参考になる鹿児島離島の本

 

 

年に3~4回は鹿児島の島旅に出かける。
もちろんその理由は、海がいいからな訳で、
これだけ自然が残ってて、ある意味観光化されていない海中ってのもなかなか無いと思う。
一口に鹿児島の海といっても、
錦江湾桜島から、坊津沿岸の大瀬、千貫瀬(センガンセ)筆頭のすこぶる魚影の濃い沈み瀬に、
透明度の良い硫黄島、デン島を代表する三島村海域。
そして屋久島、口永良部島の豊かな海に、
黒潮真っ只中のトカラの海。
さらに珊瑚礁と冬にはクジラ舞う、
徳之島、与論までの奄美群島の海。
こう書いてみて、改めて、このバリエーションの凄さに驚く。
料理でたとえると、フルコースどころか、
フレンチに懐石、家庭料理にタコ焼きまで入ってるんではなかろうかと思う。
(どれがタコヤキで、どれがフレンチかは置いとく)

 

でも、そのすばらしい海の話はまたの機会と言うことで、
今回は海ではなく、人の話。
鹿児島を代表する偉人と言えば、
そう大西郷、西郷隆盛さん。
維新の立役者、近代日本の功労者。
西郷さんと言えば、
20代の頃よく読んだマンガで、課長島耕作ってのがあってね、
たしか島課長が鹿児島赴任だったか、出張だったかの際、
鹿児島の営業所の部下に、
『、、島さんそれと最後に、
鹿児島で西郷を批判するのはダメですからね。
こっちの人は大多数が西郷を尊敬していますから。』
と言うシーンがあった。
この時は漠然と、そんなもんかなぁ~くらいにしか思わなかったけど、
これほど、鹿児島の海に潜り、島々を訪れ、
ツケアゲ、黒豚、キビナゴ、そして芋焼酎が大好きな自分なんだから、
もうちょっと鹿児島の事を知ろうと思い、
まずは県人の尊敬する、大西郷を知る事からかなぁと。

 

そこで読んだ本は“南州翁遺訓”(なんしゅうおういくん)。
難しく長ったらしい歴史の話は置いといて、
結論から言うと、
もし、仮に、鹿児島の人々の大多数が西郷を尊敬し、今もそうだとするなら、
『仕事をする上でも、信頼に値する』と思わざる終えないと思った。

南州翁遺訓は西郷自身が書いたものではない。
西郷さんが、「こんなすばらしい教えを話していたんだよぉ~」、
って言うのを書き留めたものだ。
じゃ誰が書き留めたのか?
なんと庄内藩士の手によるのだと言う。
庄内といったら山形県だ。これ不思議でしょ。距離的にもだけど、
庄内藩は旧幕府側として、薩長官軍と戦い破れているんだよね。
そうすると、さらに疑問でしょ。

 

実はこの南州翁遺訓が出来るまでには、こんな事があったんだって。
当時その戦いの敗戦処理、
城の明け渡しや一切百般を担当したのが、薩摩藩士の黒田清隆。
この黒田の仕事ぶりが、温情ある毅然とした裁量だったことに、
庄内藩士達が感銘を受けたんだね。
そんで、この見事な態度ってのはどこからくるんだろう?と思ったわけ。
で庄内藩士達が行き着いたのは、
背後にある大西郷の人格であったということ。

 

ここからが凄くてね。
庄内藩の家老、管実秀(すげさねひで)が中心となり、
維新以降の舞台に乗り出すには、この大西郷に学ぶしかないってことで、
数十名を遠い薩摩に留学させ、直接に西郷に学び、
庄内で作成されたのが、この遺訓。
つまり、敵をも感服させ尊敬させてしまう大人物であったのが西郷さんだ。
(もしこのブログを、鹿児島県人会の人が読んだら、
感動してなんか送ってくれるかもしれないな)

 

で、その遺訓のできあがる経緯は凄いのはわかった。
じゃ中身はどうなのよと言うと、
これもバッサリ一言で表すと。
“私心なき、敬天愛人”につきる。
『天に尽くす、天が見ている』と。
ちょっと思った、いまの政治家で声を大にして、
西郷を尊敬してやまないといえる人は居るのかと。
されほどに、私を捨て、つくし、
下の人からは『そこまでなさらなくても』、
と気の毒に思われる位でないとけないんだと、西郷さんは言う。
すごいな。

 

たしか、稲森さんのデスク後ろの壁に、
額縁で“敬天愛人”が掲げてあったのをテレビで見た。
凄い人です。西郷の意志を継ぐ、日本を代表する経営者ですね。

と言うわけで、来月の草垣群島の時に、
前畑船長に西郷さんについてどう思うか聞いてみようと思う。

 

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