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2018年9月14日 (金)

能と歌舞伎と鬼界ヶ島

能と歌舞伎と鬼界ヶ島
能と歌舞伎と鬼界ヶ島

600年以上前に書かれた能の大家、世阿弥の風姿花伝がある。
とてつもないしっかりした理論で書かれていて、
この秘伝書のもつ意味を、読めば読むほどに唸ってしまう有様だ。
この風姿花伝を読むと、いつも何故か、亡き勘三郎さんを想う。

それは花伝第七の別紙口伝にこんな一説があるから。

“そもそも花と言うに、萬木千草において、四季折節に咲くものなれば、
その時を得て珍しき故に、もてあそぶなり。
   〜〜
いづれの花か散らで残るべき。
散る故によりて、咲くころあれば珍しきなり。
能も住する所なきを、先ず花と知るべし。”

勘三郎さんもきっと風姿花伝を読んでいたと思う。
歌舞伎役者として伝統を継承しつつ、
一カ所に住せず、果敢に花を探求し続けたのでは、、、

そんな勘三郎の演目(役)に、“俊寛”がある。
平家転覆の陰謀を企てたとして、平清盛の怒りをかい、流刑の身となった俊寛。
流刑地の鬼界ヶ島に流されたのは、
丹波成経(なりつね)と平康頼(やすより)、そして俊寛(しゅんかん)。
当時高位の者には死罪がなく、最も重いものが流刑で、

しかも都から離れれば離れるほど重いことになる。
高位の俊寛僧都(しゅんかんそうず)にとっては、
自力ではどうすることも出来ない
鬼界ヶ島への流刑は、
当時としては魔界と現世の境地、
罪の重さがはかりしれるというもの。
ちなみに、源氏の頭領頼朝が流された地が伊豆国、
さかのぼって、菅原道真さん(天神さまだね)が流されたのが福岡。
そして、
俊寛の流された鬼界ヶ島は、、、
いまの
薩南硫黄島のことである。(諸説あり)

流刑三年後、一隻のご赦免船が鬼界ヶ島に。
清盛の妹徳子が皇室に嫁ぎ、その安産を祈っての大赦が下りるが、
何故かそこに、俊寛一人の名だけがない。
何度も自らの名を探し、使者にたずねれど、
自分一人だけ赦免無しにて、この鬼の住む地に。
狂いもだく俊寛。
出船のとも綱にしがみつき、磯に上り、足摺。。。

この俊寛の物語りには諸説あり、
世阿弥もこの俊寛を書いたとされるが、
能のストーリーはだいたい上記のものらしい。
ただ一人島に取り残される無念さを表したもの。
これに対し、歌舞伎の俊寛は、もう少し人情が入る。
流刑の3名のうち最も若い成経が、海女の千鳥と結ばれる。
ご赦免船に俊寛の名は最初無いのだが、
紆余曲折3人とも都に帰れることに。
ただ、一人どうしても取り残されるのが、若妻の千鳥。
いかように懇願しても許されないことに、
『鬼が住むはここではない、都じゃ』と泣き崩れる。
対して俊寛は、自分の妻は都で殺されたと知り、
もはや自分には帰る意味がないと、
千鳥を哀れみ、代わりに連れて行ってくれと頼む。
使者が頑なに拒否するため、俊寛と争いの後、
俊寛は使者を斬り殺してしまう。
(人情沙汰で助太刀無用とのことで対決)
『使者を殺め、自分はもはや帰れぬ』
康頼、成経、千鳥のみが船で島を後にする。
必ず赦免をもらい、また船をよこすと言う二人を信じるが、
一人島に残る寂しさと、耐え難い絶望に俊寛は、、

岩に上り、船に向かって手を伸ばす俊寛の結末はどれも同じなのだが、
そこに至る物語が何パターンか有るようだ。
どちらかというと、歌舞伎の内容の方が、俊寛の人間味が出ている気がする。

さて、あらすじを語るつもりが長くなってしまった。
つまり、こんな
俊寛を勘三郎は演じたわけで、
しかも、しかも、
なんと物語のメイン舞台である、硫黄島でこの歌舞伎が演じられたのだから凄い!
(現地での野外演舞は初の試み、しかも島だ!1996年と2011年の二回)
話によれば、衣装がダメになるので海には入らない予定であったのが、
俊寛演じる勘三郎の迫真の役により、
『我も〜』
と船を追い、海に入っていったのだとか。

もう二度と見ることの出来ない、鬼界ヶ島での勘三郎の演技。
島の人も固唾をのんだことと思う。

歴史と物語りを知れば、また一回り島旅が楽しくなる。

追伸
薩南硫黄島の港には、
勘三郎のお父さん演じる俊寛像が、
高台にある平家城跡には勘三郎演じる俊寛像がそれぞれある。
10月見れるのが楽しみだ。薩南硫黄島ダイブクルーズ視察

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