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2014年4月21日 (月)

おやじ?、社長?、会長!

島旅ネタだと思って読んでみようと思ったあなた、すみません。
このブログは基本わたしの仕事で訪れる楽しい島旅、島民とのふれあい、島で感動したことや勉強になったことを書くつもりでいます。が、しかし、島旅がないときは(今度の島旅は5月初旬の大島、5月末の口永良部島、屋久島)好き勝手書かせてもらってます。


【本は書けないけど語ってみよう】
森信三先生の本を読んで『なるほど』と膝を打った。
尊敬する先輩や一目置く同僚が亡くなられたとき。偲ぶ会を催すのも良いが、その方の生前の卓越した仕事ぶりや考えを小冊子や本にして形に残すのも一つのやり方です。と書いてありました。

なるほど偉人の多くは自分で書いたのではなく、その人を心服する弟子などの記録が本になっているのが普通なので頷けます。伝記なんかはその代表ですね。

そこで今日は、わたしの師匠のお話をいたします。(まぁ今日だけでなく思いつきで何回か) と申しましても師匠はまだ死んでません。多少病気で棺桶に片足突っ込んだ感がありますが(これ書いてるときはそうだけど、きっと100まで生きるな)、なかなか世間を見渡しましても2人といない人物なので、つらつらとここに綴ってみようと思う次第です。


≪会長小伝≫
人物の名は浅村昌孝氏。氏のことは『会長』と読んでいるので以下会長とします。別にエライから『会長』って訳でもなく、いつからか皆が会長と読んでいます。ですから貴方にとって『会長』と言う響きと印象は、きっとどこぞのお偉いさんで白髪。大体にして黒のリムジン乗ってたりするかもしれませんが、わたしにとって『会長』は『かいちょ〜う』ってな感じのニコニコした遊び心満点の変な島のおじさん、となります。

これ読んでも会長がどんな人物かさっぱり分からないので、一つデータを並べてみます。すると個人情報だから勝手に書くと本当は問題があるんだろうけど会長はそんな常識人じゃないからいいかな。(あとで聞いとこう)

・年齢   71歳(だったと思ったが本人に聞くと絶対21と言う)
・住処   奄美群島(ゆうゆう引退の島暮らし)
・容姿   色黒黒(禿頭の後ろ髪をしばっていつもバンダナ巻いてる)
・職業   ダイビング屋のおやじ(だった)

 

【あり得ない求人】
25年以上前にあるダイビング雑誌にこんな求人広告が載っていました。

『低賃金重労働、ワンマンオーナーのシゴキに貴方はどこまで耐えられるか!』

とても求人とは思えないふざけた内容です。もちろんこの広告載っけたのが会長。こんな求人広告で働く人が来るわけがない。だって今だったら「私たちはブラック企業ですよ〜」て言ってるようなもんだ。

まぁこれ一つとっても、会長が普通の人じゃないって事が分かってもらえただろうか。

ちなみにこの広告で一人だけ採用されました。 わ・た・し

遊び心があって、商売人で、笑顔がホントに人懐っこい。でも仕事になると、思いつきやさっき言った事と話が違う、言葉足らず、と使われる我々は大変でした。

 でもやっぱり凄い人です!

沢山のことを教わりました。間違いなく、今自分がこうして家族を持ち多くのお客さん、スタッフと仕事を続けていけるのはこの人との出会いがあったからです。

当然ながら今のわたしと比べても、まったく越えるどころか比肩もできません。それは物理的に越えられていないのは明確な事なんですが、それだけでは無いような気がします。


【当時の規模】
わたしが働き出した頃は従業員は10数人いたと思います。店舗も4店。都内池袋、板橋、埼玉狭山、都下羽村市、そして徳之島にリゾート。
規模の大きな中小企業と比べると、大したことは無いのかもしれませんが、ダイビング業界の中では一目置かれた存在だったのは言うまでもありません。

でもわたしが一番に思うのは、そう言った物理的な店舗数だとか従業員数ではありません。会長のお客さんに対する考え、信念、商売に対する姿勢だと思います。

今でもその姿勢や考えで、忘れもしない出来事があるので二つ三つ綴って今日の回は終わりにします。


【2時間半も大揺れの船で、、、】
これも20年くらい前の話。当時よく伊豆七島の新島にダイビングツアーを組んでいました。
5月から始まって、7月、8月、9月、10月と多い年は10本位あったと思います。
新島の海の中は自然タップリでダイバーも少なく(ほとんど我々だけでした)、スピアフィッシング(魚突き)もやらせてもらえる特典もあった。(特典と言っても会長がそう出きるように色々根回しする訳だが)
ただ良いことばかりじゃない。海が荒れることも多く、そうなると東海汽船も欠航したりするんです。

その時も2、3日お客さんに楽しんでもらった後。いよいよ海が荒れてきて、この分だと翌日の汽船は欠航だろうと言う話に。
参加者も様々な方々で、たしか看護婦さん、会社役員、社長さん、職人さんなどなど。9人くらいでした。

何人かは、「1日2日延びてもこの海だからしょーがない」とのことでしたが、一人だけどうしても帰らないといけないお客さんがいました。

『明日までに帰らないと給料払えないよ』
『まずい!会長なんとかしてくれ!』

大体にしてこう言われるとなんとかするのが会長です。大きい船持ってる船主を何人か回ってやっと下田まで行ってくれる船を見つけました。

想像通り、時化の海を漁船が私たちを運ぶわけですから、そりゃ〜もう揺れるのなんの。小さい船室に重なり合ってひたすら我慢です。

今考えるとその当時の会長の葛藤と言いますか、苦悩と言いますかが分かるんですが当時のわたしはまるっきり分かりませんから。なんだか特別な経験が出きるくらいしか思ってなかったと思います。おはずかしい

もちろんチャーターした船はタダではありません。たしか10万くらいかかったと思います。絶対帰らなくてはいけない人はいいとして、それ以外の人を島に残すわけにもいきません。船に弱い人もいます。

なんとか全員船に乗せ、10万を不均等に分けて徴収します。
相当に船酔いする人は出るだろうし、数日の楽しい新島の経験が「最悪の思い出」に変わることだってあるわけだから、そりゃ髪の毛も抜けるね。


その船内でのはなし。

当時わたしは青二才。船にも強くなく(と言うかこんな荒れる海を漁船で走ったことがなかった)、自分のことでいっぱいいっぱい。肝心の会長はと言うと、、、、
目をしっかり開けてお客さんを一人一人見ています。
2人気持ち悪そうにすると、床に頭があると振動で気持ち悪くなるからと自分の足にお客さんの頭をのせてあげてました。会長以外は全員寝ころんで(わたしも)会長だけ座って足を出し、そこにお客さんの頭をのせて、

ひたすら2時間半 そのまま


今でもわたしマネが出来ないと思います。

日ごろしっかり者に見えても、肝心な緊急時にどうなのか?。人間のその人の本質って緊急時にこそ出るんではないでしょうか。
そう言った意味では、まぎれもなく会長はお客さんにとって信頼たる人だったと思い出した次第です。

つづく

                        回想:伝一郎

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